◆論考「バングラデシュの新型コロナウイルス感染症への対応とムスリム社会」
外川昌彦
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所・教授
日本バングラデシュ協会・メールマガジン、2020年10月号・掲載予定
➣コロナ感染症とムスリムの祝祭日
バングラデシュでの新型コロナウイルス感染者は 4 月中頃から増加を始め、一日当たり
の新規感染者数は 6 月後半に約 4 千人でピークを迎え、その後は 2~3 千人で推移している
(図―1)。感染者が増加した時期は、ちょうどイスラームのラマダン(断食月、4 月 24 日
-5 月 24 日)の期間と重なるので、それが感染拡大のひとつの要因として取りざたされた。
とりわけ、ラマダン明けの祝祭日(イード・アル=フィトル)には、買い物や里帰りなどで
人々の往来が一年でも最も盛んになるので、それが感染者数の増加に結び付いたというの
である。
確かに、通常であればラマダン期間中のムスリムは、モスクでの集団礼拝に努め、親族や
友人と集まって日没後の食事(イフタール)を楽しむ。人々の高揚感はラマダン明けの3日
間の祝日にピークを迎え、ショッピングモールやレストランは大勢の人出で賑わい、衣類を
新調し、贈り物を携えて、互いの家を訪問する。
ところで、同じムスリム社会でも、ラマダン前後の感染者数の推移のパターンは必ずしも
一様ではなく、そこには人々のふるまい方や考え方の違いが見られるようである。
➣サウジアラビアでの感染防止策
たとえば、サウジアラビアでは、3 月 4 日に聖地メッカやメディナへの巡礼が停止され
る。感染症の拡大防止に向けて、世界各地のムスリム社会では、モスクの閉鎖や集団礼拝の
禁止などの措置が取られたが、人影が消えたカーバ神殿の映像は、さし迫る状況の深刻さを
人々に印象付けた(写真―1)。
その後、サウジアラビア政府は、4 月 6 日には主要都市での 24 時間の外出禁止措置を実
施するが、しかし、逆にラマダン期間に入った4月 26 日に禁止措置は緩和され、一部の商
業・経済活動の再開を認めるので、それが感染の拡大につながった可能性が指摘された。
図-1を見ると、確かに、制限緩和後の5月中頃に第一のピークが見られ、イード後の二
回目の段階的な制限緩和の実施に対応するように、6月中頃に第二のピークが現れる。
➣パキスタンでの状況
他方、2 月 27 日に初の陽性者が報告されたパキスタンでは、感染症への政府の対応も早
く、3 月 13 日には学校閉鎖や集会の禁止が発表される。ちなみに、バングラデシュでの初
の陽性者は 3 月 8 日で、外出制限措置等は 3 月 23 日である。日本では、初の陽性者は 1 月
16 日で、休校の要請が 2 月 27 日、東京都の外出自粛要請は、五輪延期決定後の 3 月 25 日
であった。
しかし、その早期の対応にもかかわらず、パキスタンではラマダン月になると感染者数
は急速な増加に転じ、イード後の 6 月 14 日にはバングラデシュの 2 倍以上の 6,825 人を
数える。その背景には、宗教界の強い要請でモスクでの礼拝の制限を緩めた政府の対応
2
や、政府の防止策にもかかわらず、制限が十分には守られていない状況が報じられた(e.
g. 「パキスタン:モスクでマスクつけず礼拝、後を絶たず 新型コロナ」NHK ニュー
ス)。注 1
➣バングラデシュでの取り組み
パキスタンの状況は、見方を変えれば、感染防止策が比較的に守られて、急速な拡大は
抑えることができた、バングラデシュの人々との対応の違いを示すものであることが推測
される。もちろん、人口構成や人々の移動状況、社会・生活環境の違いなどで感染症の現
れ方は異なるので、さらなる社会指標による検証が必要だが、6 月以降、新たなガイドラ
インのもとで経済活動を再開してゆくバングラデシュでは、感染者数は一定の範囲を維持
することで、感染防止と経済活動との微妙なバランスを保とうとしている。少なくとも隣
国インドのように、9 月 7 日には感染者数が 420 万人を越えて世界第二位の規模となり、
死者数も 7 万1,642 人になるという状況は、避けることができている。注 2
いずれにしても、感染症の拡大はまだ先が見えない状況ではあるが、このような感染防 止策への対応にも、ムスリム社会の多様な在り方を見ることができるのは、興味深い問題 に思われた。
写真-1 人影が消えたカーバ神殿(https://www.cnn.co.jp/photo/35152588-38.html)
図―1 :一日当たりコロナ感染者数の推移:サウジアラビア・バングラデシュ・パキスタン 出典:Daily New Confirmed COVID-19 Case, Our World in Data, : https://ourworldindata.org/, 7 th Sept 2020 より筆者作成
注 1: https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200508/k10012421261000.html
注2: 9 月 16 日時点で、インドの感染者数は 502 万人、バングラデシュは 34 万人を数える(https://coronavirus.jhu.edu/map.html)。なお、コロナ感染症の検査数は、インドでは累計 5,724 万件(9 月 15 日)で、159 万件のバングラデシュの約 36 倍となり、検査に対する平均陽性率は、インドの 8.3%に 対してバングラデシュは 19.5%となる(Institute of Epidemiology, Disease Control and Research, Bangladesh; "SARS-CoV-2 (COVID-19) Testing: Status Update". Indian Council of Medical Research.)。こ れらの事から、インドではより大規模な検査が実施され、結果として、多くの感染者が報告されている状 況が指摘される。